家庭

ひっそりとした明け方の居間の片隅のベビーベッドから、 5ヶ月になった長男が寝返りを打つ音だけが聞こえる。 長男、田中レオ晴賢(れおせいげん、Leo Sagan Tanaka)を妻が妊娠した時、 嬉しさとともに、生まれてくる第二子に長女同様の愛情を注ぐことができるのだろうか、 と不安に思ったのを記憶している。 それくらい長女えみが私の中で全てであった。 それぞれに注ぐ愛情は半分になるのか、それとも愛情は二倍に膨れるのか。 そんな事を思いながら誕生を待っていた今年の前半だった。

leo

首が座ったのを機にベビーチェアに座らせて、夕食の時間を一家4人で囲む様になった。 一姫二太郎。えみもレオに抱擁して可愛がる。 その我が子らに夫婦で愛おしく眼差しを向け、そして父母が微笑を交わす。 食卓を見回すと、これで家族が完成したんだという静かな喜悦と感謝に満たされる。 愛情を注ぐというよりも、家族が一緒に過ごすことで醸成される愛情の空気に、 自分の方が癒やされるというのが正解だった。

つつましく甘美な家族生活の印象が一番にあがるこの一年が過ぎ43歳を向かえた。 この一年は実に多くのことがあった。 仕事以外のことだけでも、次のような出来事が挙げられる。

  • 3月、親知らずを4本同時に抜歯
  • 5月、母の手術、入院
  • 同月、新車購入(マツダCX-9 Signature)
  • 6月、長女の中国語保育園入園
  • 7月、長男誕生
  • 8月、叔父の逝去
  • 9月、長女の日本語保育園入園
  • 同月、米国ドラマ、高い城の男シーズン4のエキストラに初参加

上の世代が着実に老い、新しい芽が健康に育つ。 それを見守り支える中間世代の我々という構図がみえる一年だった。

ビジネスの成功と失敗

様々な職を転々としてきたこの20年、一貫していることは、 人生の総歩数を学びの量で測ってきたことだ。 私にとって学びとは読んだ本の冊数や、受講した講義の数でもない。 本当に意味があるのは、未挑戦な分野に取り組み、アイディアを実現する上で必要から得た知識。 そして自らの成功や失敗を通してのみ得られる体験的学びだ。

そういう意味で2018年は、成功と失敗から大きく学んだ年だった。

昨年9月にデータサイエンスのコンサルティング会社、 Anelen(アネレン)を自宅のあるカリフォルニア州マウンテンビュー市で立ち上げた。 クライアントの問題解決に必要な技術的学習はもちろんのこと、 マネジメント、セールス、経理なども初めての経験であり、 自分なりのスタイルを確立しながら大きく学んだ。 幸運にも最初の半年は、一人会社として前職の所得を大きく上回るペースで売上げた。 そうして勢いがついてきて、利益の一部を再投資する余裕が出てきた頃、 クライアントのCEOから、インテルやオラクルでシニアマネージャー、 ディレクターを経験した人材を紹介され、 ビジネスディベロップメント担当として参加してもらうことになった。 さらに、ジュニア・データサイエンティストも紹介され、 彼女をメンタリングをしながら一緒にクライアントのプロジェクトを進行させた。 3人体制になり、さらに遠隔の契約社員も加わって、チームを率いて仕事を明確な形で任せる要領も得た。

しかし、自己資金ビジネスはここからが難しい。 現在のクライアントから安定した売上を得ながら、新規の顧客を開拓して、 チームのアウトプット容量と歳入をバランスさせようと挑戦していた最中、 主要顧客が経営方針の変更にともなうリストラを決定した。 当然、当社への一括契約も一旦途絶えることとなる。 次の大口顧客が固まるまで、チーム体制を維持することは難しくなったので、 一旦ビジネスの拡大は中止、原点にもどることにした。 心苦しく難しい決定だったが、手遅れにならないうちに引き上げることができたのは、及第点と自己評価している。

新しい事を始める時、「だめで元々」と短気な自分に言い聞かせている。 そもそも資金の少ないサービス会社が、顧客からの売上を社員への給料として分配し、 安定したビジネスに育つ可能性は小さい。 そのことは事前の計算でわかっていたので、今回の失敗は驚くことでなかった。 小さい可能性でもやってみようと思ったのは、参加してくれたメンバーに経済的な余裕があり、 私と仕事をすることで得られる経験と学びに魅力を感じてくれていたからだった。 私としても、チームを一からつくり、組織として運営してゆく貴重な経験を得られた。

今回、ロケットは打ち上げ後、軌道にのるかという局面であおりを受け、緊急脱出を余儀なくされた。 拡大の失敗は残念だが、現在のクライアントに丁寧な仕事をしつつ、体制を立てなおす力は十分残存している。 来年は、一旦振り出しに戻り、今年とは異なる方法を考えてゆきたい。

Stay small. Stay interested. Stay interesting.

データサイエンス分野は人材不足の傾向が続くようである。 中でも、持続的なインフラとチーム体制を整える力量をもったリーダーの獲得には、 シリコンバレーの大小のテック企業でも非常に苦労している。 問題の解決法を提供する側には、好条件な契約を勝ち取るチャンスがある。 しかし、一旦人材を探す側に立つと、供給不足のマーケットの中で非常に苦しい戦いとなる。 解決法を提供している当社も、一旦スケール化を試みるとクライアント側と同じ苦労をすることとなる。 ここをよく理解して、来年は「小さくあること」を武器にしてゆきたい。

コンサルティング業のスケール化をかじってみて学んだことの一つは、 成長を第一に考えるので、入りこんでくる仕事にノーを言えなくなるということだ。 自分のやりたい領域からはみ出る案件が増えると、 何故わざわざ自分の会社を立ち上げてまで合わない仕事をしているのか、という気持ちになる。 そういう仕事を引き受けると、生産性がはっきりと落ちるのが分かるので、 他に当たってもらったほうが互いのためだろう。 来年はスケール化は考えず心から貢献したい仕事に集中し、会社としての存在意義、 ニッチを再度明確にしてゆく。 この事を考えた時、英語で”Stay small. Stay interested. Stay interesting.” という言葉が来年のテーマとして浮かんだ。 小さくあることで、興味をもった仕事に関心を向け続け、注目に値する存在であり続けようという趣旨だ。

データサイエンスコミュニティーへの貢献にも興味がある。 社員を増やしてみて分かったのは、メンタリングに生き甲斐のような物を覚えるということだ。 最近はデータサイエンスのオンライン教育、ブートキャンプ、正式な学位も出てきたが、 企業側にジュニア人材を受け入れる体制が整っていない場合が多いので、 実務経験の欠如がキャリア形成のブロックになっている印象がある。 再度、資金と時間の余裕が出てきた頃には、再びデータサイエンティストの卵を雇い、 当社で実務経験を積んでキャリアスタートの助けになっていければメンター冥利だと思う。 前職を含め、今までメンタリングした人材は、私からの訓練に感謝をしてくれ、 名のしれたテクノロジー企業でそれぞれ頑張っている。

さらに、独立する実力と精神をもったデーターサイエンティストのコミュニティ、 Entrepreneurial data scientist (仮名)というグループを立ち上げ、 雇われの状態からビジネスオーナーになる手助けや、技術的な相互扶助が可能かを模索している。 独立データーサイエンティスト間の同盟を強めてゆき、 事業パートナーシップの形でビジネスを共に大きくしてゆくことはできないだろうか。

会社を設立して独立した際、専門職でのギグ・エコノミーはどのように成長してゆくのかはよく考えたテーマだった。 フリーランスのような時間の切り売りでなく、提供する価値をベースとした契約を交わし、 小さなビジネス母体として活動してゆくノウハウの一端をこの一年で獲得した。 来年はこのノウハウが継続的な成功をもたらすかの実験であり、 自分の体験をもって周囲に新しい働き方を考えるきっかけになってゆければ幸いである。

一人の人間として生ききる

この日記を書き始めてから数日がたった。今日は娘の保育園も休みに入り、皆が自宅にそろっている。 赤ん坊をあやしたり娘の機嫌を取りながら、私はこれを書き上げようとしている。 クリスマスから2週間はほぼ完全に休業し、一家水入らずのひとときを過ごし、近場の友人との交流もする予定だ。

今の私は決して仕事狂いではない。

独立してからは、娘の朝の支度、弁当の用意、保育園への送り迎えをし、 晩ごはんは毎日一家そろって食べている。 前職でのスタートアップ生活6年間のほとんどは、子供がいなかったこともあり、 家庭を作ることは意識せず、ひたすら仕事に集中していた。 会社の草創期は妻と晩ごはんをとったあと、会社に戻って深夜まで作業を続ける 毎日だったし、20時間以上働いた日も数えるほどあった。

会社が大きくなると人間的な生活ができるようになり、それまでのやり方を振り返る時間も増えた。 今のシリコンバレーを見ていると、チャップリンのモダンタイムズが思い出される。 工場から頭脳労働へのシフト、資本家の労働者搾取からストック・オプションへと 表面的には異なる風景が広がるものの、 目標が労働者を駆り立て人間性から目をそらす構造は何も変わっていない。 その思いは、長女の誕生を機に拭い難い問題意識となる。もはや自分勝手は許されない。 それからは、いかに父親としての務めを果たすかが行動の基準となった。 同時に退屈が最大の脅威である。子育てのために安定した仕事に就いたら、退屈が私を殺すだろう。 ソフトウェアエンジニアからデーターサイエンティストに転身したのも、 独立してコンサルティング事業を始めたのも、 そうした自分の性分と家族への責任の折り合いをつけるための長期計画だった。

一人の人間としてまずは生ききる。家族と苦楽をともにし、家庭での責任を果たしながら、 社会の一員として確実に貢献をしてゆく。 43歳の自分は、周囲の自分より若い世代に、そういう生き方の一例を示してゆきたいだけなのだ。

※ 34歳から続けている誕生日日記も10回目となりました。