Emi and Daddy 長女えみと近所の散歩

今年も無事に年末の誕生日を迎えることができました。例年通り、頭のなかを母国語に 切り替えてここ一年を振り返り、これからの人生を考えたいと思います。長い文になる ので、トピックを先に挙げます。

  • 半生ふりかえり
  • 三ヶ月間の専業パパ
  • 育児休暇もう一つの理由
  • 科学実験の再現性問題
  • 研究データ管理サービス
  • 貪欲さと感謝の心のバランス

半生ふりかえり

今年は40歳という節目でもあるので、今の自分をつくった象徴的な出来事を思い出してみよう。

  • 1988年: 私立栄光学園中学校入学。中学2年のある日、下校時の寄り道でI/O別冊ポケコンジャーナルという雑誌を手に取る。当時、家にパソコンがなかったので、ポケットコンピューター(シャープ製PC-E500)でプログラミングの楽しみを覚えた。BASICから入り、機械語まで独習した。ある日、ポケコンの蓋を開け、なれないハンダ付けでクロックアップとRAMの増設を試みた。クロックアップはうまくいったが、続くRAMの2階建て手術中に基盤を剥がしてしまい、ポケコンはご臨終。
  • 1991年: 私立栄光学園高等学校入学。2年の夏、初めての海外旅行。単身ロンドンのサマースクールに飛び込み、1ヶ月を過ごす。英語のクラスは自分以外バカンス気分のイタリア人で英語よりもイタリア語を覚えて帰ってきた。高校では英語と数学以外の成績は上がったり、下がったり。英語は負けなかったが、数学はずっと悪かった。
  • 1994年: 慶應義塾大学総合政策学部入学。大学では国際政策コースだったが、当学部はプログラミングを含めた情報処理クラスが必修だった。コンピューターの方が向いていることに気づいて外交官志望をやめ、千代倉弘明ゼミに入り3次元CADの医学への応用というテーマを勉強した。計算機幾何学を通じて、やっと数学を勉強する意味を見出した。
  • 1998年: 慶應義塾大学政策メディア研究科修士課程入学。千代倉弘明教授と小林正弘現看護医療学部教授の指導のもと口唇裂の3次元モデル生成の研究。パリでの学会発表が良い経験になった。
  • 2000年: 慶應義塾大学医学研究科博士課程入学。同年10月、研究学会での繋がりを縁に米国ジョージタウン大学メディカルセンターの客員研究員として2年渡米することになる。
  • 2001年: メリーランド州シルバースプリング市に住み、共同プロジェクトのためにジョージタウン大学と陸軍内の医学研究所両方に所属して研究をすすめる。9.11テロの朝は陸軍内のオフィスにおり、CNNのライブ映像に背筋を凍らせ、「ここも危ないから。」と家に返されたのを記憶している。その後、施設内郵便受けに微量の炭疽菌も発見され、機関銃を構えた兵隊さんを横目に施設内に出勤する日がつづいた。
  • 2002年: アメリカで学業を続けたいと考え、慶応大学医学研究科を中退。大学院の申し込みをするも次々に不合格。唯一、カーネギーメロン大学のバイオメディカルエンジニアリング学部から合格をもらう。指導教授となる嶋田先生に拾ってもらったというのが本当のところ。教授のラボのスターだった山川博士が同じ千代倉研究室出身だったというのが有り難い巡り合わせだった。ペンシルバニア州ピッツバーグへ引っ越し。カーネギーメロンでは、当初取り組んでいたコラーゲン分子のシミュレーションの研究が共同研究者と大学とのトラブルが原因で中止になるなど、なかなか多難な4年半だった。最終的には論文誌にも第一執筆者として4本出し、無理のない博士号取得となった。博士論文のタイトルは”Computational Method for Cryoprobe-Layout Optimization via Finite Sphere Packing”。また、夏に参加したサルサダンス教室にて妻と出会う。
  • 2007年: Ph.D.取得を機に医療分野での研究に終止符を打ち、油田サービス世界最大手のシュルンベルジェ社に入社。以来テキサス州ヒューストンに4年半住むこととなる。シュルンベルジェでは原油探査部門のウェスタンジーコに配属され、これまで医療分野に応用していた計算機幾何学を地球物理学に活かし、地底構造の3次元モデルを生成するソフトウェアの開発に加わった。ところが申請者が急増していたH1Bビザの選考に漏れる。理由は博士課程での研究分野(バイオ)が会社の業務(油田サービス)と一致しないというものだった。会社はロンドンオフィス行きを勧めるが、結婚を予定していた妻と相談して入籍を済まし、永住権を申請。会社と交渉して申請手数料と弁護士料を肩代わりしてもらう。
  • 2008年: 前年12月に入籍を済ませていた妻と挙式。ピッツバーグから妻もヒューストンへ合流。その直後、ハリケーンアイクがヒューストン州を直撃。ほぼ一週間、自宅では水道なし、電気なしの生活を体験する。
  • 2011年: 夏に妻とカリフォルニア州移住を決め、妻の転職が決まったのを機に引っ越し。私は遠隔勤務をしながら転職先を探した。年末にFiveStarsという名も知れぬスタートアップに5人目のエンジニアとして参加することになり、シュルンベルジェ社を退社。

FiveStarsに参加してからまもなく4年となる。いわゆるフルスタックエンジニアとして 製品開発に関わることは勉強しながらすべてやった。エンジニアという枠にとらわれず、 顧客との直接交渉を含め、会社が成長するため必要なことは何でも挑戦した。そして 現在、ユーザー数は当時の100倍の約1000万人、毎月利用料を払う顧客小売店数は25倍、 利用料は6倍となった。社員300人と会社が大きくなり、組織化され、体力的に普通の 生活ができるようになった。同時に製品開発エンジニアから、データサイエンティスト へと自分の役割を移行した。

そして今年はさらに大きな転機を迎えた。

三ヶ月間の専業パパ

3月に無事長女が生まれた。

生まれてくる娘と妻のために、出来ることは何でもしたいと考えていた。会社の立ち上 げ期からの献身を材料に、育児休暇を粘り強く交渉した。その結果、出産前数週間の 自宅勤務、出産後3週間の有給休暇、そして妻の職場復帰後12週間の育児休暇(うち 2週間有給^1)をもらうことができた。アメリカでも特に私が住む地方では父親の 育児参加への追い風は強い。カリフォルニア州では、社員が一年以上務めた後ならば、 会社は父親に対しても12週間の無給休暇は認めなければならない。とはいえ、発展途上 なスタートアップで上記のような条件交渉を切り出すのは非常に勇気のいることだった し、振り返ると随分休んだなと我ながら苦笑いだ。

7月に入ると、職場に戻る妻とバトンタッチで私が約3ヶ月の「主夫」になった。早朝、 娘が起きだすと私がおむつを取りかえる。着替えをさせ、だっこをして庭の植木を一緒 に見ながら話しかけ、妻が起きて出勤の支度を済ませるまでおすわりやつかまり立ちの 練習をさせて時間を過ごす。妻は授乳をして出勤、私と娘だけの一日が始まる。母乳 だけで育てているので、最初は哺乳瓶からの授乳がうまくいかず泣きやまない娘を抱え て途方に暮れる日がしばらく続いた。

おしめの取り換え、授乳、風呂、寝かしつけ。主夫(婦)は本当に忙しい。仕事と違って 相手は言葉もわからぬ乳飲み子なので、その日その日は相手のペースに従うしかない。 夜も起きて泣くので、こちらも昼寝で寝不足解消と行きたいところだが、娘が昼寝中に 自分の昼飯の準備をうまくやっておかないと食いっぱぐれるというありさまだ。 それでも作業に慣れ、リズムも出て来て、昼寝中に自分の時間さえとれるようになった。

娘は声を出して笑うようにまで成長し、だっこをして毎日一時間以上ダウンタウンまで 散歩に出かけるのが日課となった。真っ昼間に男が一人、カフェでコーヒーをすすり ながら赤ん坊に幸せそうに話しかけている。そんな立場を勝ち取った自分が少し誇らし かった。同時にレストランの男性トイレにおむつ替えテーブルが設置されていないこと に不便を感じたりと、父親が育児をする環境は改善の余地が随分あるんだなと 考えたりもした。

育児休暇もう一つの理由

長期の育児休暇をとった理由はもう一つあった。自分はこれからどう歩んでいくか、 日常業務から離れて考えてみたかったのだ。会社の草創期、破茶目茶に突っ走ってきた 頃と比べると、多彩な人材が加わり、組織も整備され、私も普通の勤務になってきた。 会社が吹いて飛ぶようだった頃を思い出すと、喜ばしいとともに寂しくもある。

現に草創から一緒にやってきたエンジニア仲間は次の事業の立ち上げのために各々 巣立ってしまい、いつの間にやら自分が一番の古株エンジニアになってしまった。自分 の次の一手は何なのか。もともと今の会社の顧客ロイヤリティというのは自分のテーマ ではない。今の職場はとても幸せな場所だが、いずれ私も巣立つ日が来る。次の冒険に 出る際には、FiveStarsの立ち上げで学んだことを活かして、自分の世界に近い ところで勝負がしたい。

ほとんどの新規サービスは頓挫しスタートアップと共に消滅するものだ。FiveStarsが ここまで大きくなれたのも5%に満たない確率だ。当初はノリの良さと勘だけで参加した ようないい加減さだったので、まったく幸運だったという以外ない。 今考えると、スタートアップはどうしても解決したい社会の問題を見つけるまで 立ち上げるものではないと思う。無数のスタートアップが生まれては死ぬ一方、 社会の問題は解決まで消えない。良い問題を見つけ取り組めたならば、 たとえ自分の創りだした製品サービスが死ぬ運命にあっても、社会へのメッセージは 残り、誰かがより良いものを作り出すきっかけになる可能性がある。フェイスブックの 前にはマイスペースがあり、グーグルの前にはヤフーがあった。自分はどの問題に時間 と労力を捧げたいのか。そんなことをここ数年考え続けている。

科学実験の再現性問題

日頃からいろいろなアイディアを考えているが、自分の時間の大半を捧げる甲斐がある 思うテーマが一つある。再現性の問題だ。科学研究では、所定の条件や手順の下で、 同じ事象が繰り返し起こったり、観察されたりすることが研究の価値を決める大きな 要素だ。しかし、学会誌に掲載される論文には実験のデザインから分析手法の概要が 示されるのみで、論文の審査員が出版前に再現性をチェックすることは稀である。また 大半の掲載論文は仮説どおりの結果が検証された研究に偏っている。ここ数年大衆メディア[^2] さえ騒がせた科学スキャンダルの背景にはこの再現法の不明確さと出版バイアスがある。

再現性不可を疑われる論文のほとんどは捏造ではない。実験デザインからデータ収集、 分析まで注意深く実験環境とデータの管理をしなければならないし、他の研究者が 再現をするために詳細な記録を各ステップで取ることが必要だ。汎用計算機能力の 向上により、いわゆるビックデータと行かなくとも、一つの実験がもたらすデータ量は 一人の研究者が個々の値を目で確認する限界を超えることが多い。統計分析に至る までのデータ加工のステップも複雑だ。前述の論文出版プロセスに加えて、要求される データ管理の緻密さが実験の再現をより困難にしている。

研究データ管理サービス

再現性の支援のために自分が考えているのが、研究データ管理のためのソフトウェアと サービスの提供だ。実験データは記憶媒体に保存された後、二次変換され、分析される のが常だ。研究のステップを踏むごとにデータは変化する。データ変換の詳細がR言語等 のソースコードで記録されることが理想的なのだが、多くの研究者はコードを書けない。 せめて各ステップでなぜデータがこのように変化したのかを記録し、共同研究者や 外部研究者のレビューを容易にするしくみをもうけたい。

実は育児休暇中にソフトウェアのプロトタイプを作ってみた。このアプリケーションは パーソナルコンピュータ内の実験データファイルを監視し、一定の変化を見つけると 「スナップショット」を作る。研究者がこのスナップショットにノートを添付すること で再現性の向上につながる。プログラマーに人気のgit(ギット)というバージョン 管理システムのデータ版だと思えば良い。gitではプログラマーが意識的に コード変更をシステムに知らせる(コミットという)必要があるが、これは論理的思考 の妨げや研究者の緻密さに頼りすぎることになるので、コミットの部分を自動化し、 後からノートを付加、編集できるようにしたのが工夫だ。このアプリケーションから サーバにデータを送ることで、実験データと分析ステップを共有し、内外研究者から の早期レビューを手助けする。

実際のデータ分析は試行錯誤の連続で、バージョン管理システムがないと、手動で ファイルを別名保存し、別途ノートを記録し続ける必要がある。このアプリケーション を使えば、別名保存の手間なしに各スナップショットに記録されたデータの状態へ何時 でも行ったり戻ったり出来る。一度戻った時点から新たなデータ操作をすることで、 自動的に履歴の枝分かれも記録されるのも、試行錯誤の助けになる。

再現性向上のために出版論文に関わるデータ開示を要求する研究基金や論文誌も増えて いるが、データをどこに保存して公開すればよいのかと戸惑う研究者も多い。ボタン 一つでデータの保存と公開を可能にすれば、研究者の悩みをまた一つ解決できるのでは ないか。研究は一つの論文の出版が終わっても続くものであり、データも継続して 加工、利用され続けることがある。どの時点でのデータがどの論文に使われたのかを タグ付けする機能も大事だろう。

このシステムは再現性へのごく一部のハードルをクリアするにすぎないが、データ集約 的な研究が増えるなか、大事な環境整備だと思う。適切な道具の提供なしに、 科学者に再現性を要求するのは無理強いだ。環境整備の一角を担えれば嬉しい。 現在は昼間の仕事の後に少しずつ開発をすすめ、直接フィードバックをもらえる妻や 近くの友人研究者に試用してもらう段階だ。ここからどのようにユーザを拡大して、 サービスの進化させるのか悩ましいが、興味のある問題が見つかっただけこれ幸いと じっくり取り組んでみたい。興味や助言があれば気軽にご一報を(daigo.tanaka@gmail.com)。

貪欲さと感謝の心のバランス

今年の誕生日日記は誕生日前日に以上をざっと書きあげてから公開せずに二週間も 眠らせてしまいました。研究データ管理サービスについて書いたものの、公開した時点で この道にコミットしてしまうような気がして、躊躇があったのです。40歳に近づくにつれ、 短い人の一生を意識することが多くなりました。自分がこの世でなせる仕事とは何だろう と悶々とし、興味のある分野を貪るように勉強しても、なかなか答えがみつかりません。 今年はそんな未熟な自分に子供がうまれました。のろけや親ばか丸出しですが、本当に 美しくて賢い妻と健康で最高に可愛い娘に恵まれたと思います。この家族さえあれば 仕事なんてどうでもよいと心が優しくとろけるひととき。それが私の顔から険しさを 少し取り除いたと思います。これからは「まだまだ」と悩み頑張る貪欲さと、 幸せな家庭に浸りきって感謝する自分が交互するのだろうと思います。

今年読んだ本の中に、ピーター・ティールの「ゼロ・トゥ・ワン」があります。 ワシントン・ポストによるインタビューの中で彼はこう言いました。

大分意訳になりますが、次のような内容です。

常に人々は毎日が最期の日であるかのように生きなさいといいます。 私は言ってみれば反対の道をたどってきました。 つまり人生が永遠と続くかのように毎日を生きるべき考えたのです。 人と接するとき、彼らと将来再会するものとして待遇すること。 長い年月がかかるかもしれない事業を始めること。 このように私は人生が永遠につづくかのように毎日を生きていきたいのです。[^3]

私は山本周五郎の一部の小説を愛読して何度も読み返していますが、次の言葉も 突き刺さりました。

なにごとにも人にぬきんでようとすることはいい、けれどもな阿部、 人の一生はながいものだ、一足跳びに山の頂点へあがるのも、一歩、 一歩としっかり登ってゆくのも、結局は同じことになるんだ、一足跳びにあがるより、 一歩ずつ登るほうが途中の草木や泉や、いろいろな風物を見ることができるし、 それよりも一歩、一歩を慥(たし)かめてきた、 という自信をつかむことのほうが強い力になるものだ、わかるかな」[^4]

40を前にして、ともすれば死に向かって残り時間がどんどんなくなっていくような 焦燥感にかられていたので、これら賢人の言葉には救われた気持ちになりました。 時間が少ないからと効率的に生活するのも正解です。しかし焦っては、大きく創造的な 仕事を選び、腰を据えて取り組むことはできません。家族との二度と戻らぬひとときを 心から楽しむことも難しいでしょう。

40歳、これからの人生も長い。ますます学び、 心身ともに益々健康になり、新しいことへの挑戦も楽しんでいこうと思います。

これまでの誕生日日記

[^2]: 再現性の問題を冷静に報じた良記事にワシントンポストの The new scientific revolution: Reproducibility at last - The Washington Postがある。 [^3]: Peter Thiel on what works at work - The Washington Post [^4]: 山本周五郎 「ながい坂(上)」 新潮文庫 29頁